当店の歴史

創業120年余り、桐生の街に育ててもらったうどん屋です。

創業は1887年(明治20年)、栃木県足利市出身の初代、藤掛代作が桐生市東に店を構えた。
立地は郊外だったが、熱心な商売で店の基礎を固めた。2代目、茂一郎は繊維産業の活況で盛り上がる社交界にも繰り出したという。3代目を継いだのは茂一郎の次女リウと夫の徳次郎。勝気なリウに対し、徳次郎は黙々と仕事に打ち込む職人気質。対照的な夫婦だったが、仕事一筋の生き方は共通していた。このころ、機屋の繁盛でにぎわう本町の借家に店を移した。リウは炊事や洗濯などの家事を住み込みの職人に任せ、自らは店の切り盛りに専念。その甲斐あって、数年後には現在地に自前の店を構えた。(旧店舗)

戦時中に配給制となった小麦粉は、藤屋本店などが加工した商品を市民が受け取る「配給切符」の枚数に応じて、国から業者への配給量が決まった。当時、高値の小麦粉を使わずに横流しして儲ける店も多かったが、藤屋本店には配給量で県内一位になった記録が残る。5代目の藤掛勇は「仕入れた粉を客に全部提供し、まじめな商売を守った証し」と語る。

その精神は、戦後4代目となった文吉に受け継がれた。桐生の繊維産業が息を吹き返した経済復興が重なり、店は繁盛した。交代で昼食を取る機屋の女性従業員らで昼下がりまでは店は混雑し、夕方になると持ち帰りを求める主婦が列をなした。得意先で冠婚葬祭があると、文吉はめん板を担いで賄いに出張し、重宝がられたという。

今は・・・
藤掛勇が店に入ったのは1980年。繊維業界の低迷で街の活気は下火になったが、3種類の風味のうどんが楽しめる「三味うどん」や野菜たっぷりの「サラダうどん」などメニューを追加して若者や女性客にアピールしている。

今年1月には隣接地に店舗を新築移転。店を発展させた徳次郎と文吉にちなみ「文徳の間」と名付けた個室を設けた。周囲を散策する観光客向けの屋外トイレも設置、解放している。

地域活性化に向けて建築物保存の機運が高まっており、昭和初期に建てられた旧店舗の保存を決め、今後は無料ギャラリーとして活用する。そこにはこんな思いを込める。「店ののれんが雰囲気づくりに役立つなら使ってほしい。街に育ててもらった店だから、商売は街に恩返しをしながらでないと」

― 2009年上毛新聞生地より内容抜粋 ―

戦後の店構え

昭和45年頃の店舗

昭和45年頃の店舗